545323 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

武蔵野航海記

武蔵野航海記

熊沢蕃山

江戸幕府の仕組みというのはなんとなく変だと以前から感じていました。

どこが変なのか一所懸命考えてみた結果、気がつきました。

江戸幕府は中央政府であって、中央政府でないのです。

日本の唯一の支配者であると同時に、大名という支配者群のひとつに過ぎないという地位でもあるのです。

徳川の将軍は大名の妻子を江戸に住まわせて大名の領地に帰ることを許しません。妻子は人質です。

妻子を人質に取るということは、徳川の将軍にとって大名達は敵だということです。

少なくとも敵になる可能性があるということで主君と家来という関係ではないということです。

戦国時代は、大きな大名は小さな大名と同盟関係を結ぶ時は人質をとりました。

例えば、安芸の国の小大名であった毛利元就は出雲の大大名であった尼子氏と同盟を結びましたが、そのとき人質を差し出しています。

その後元就は尼子からの独立を宣言し合戦もしています。

当時も今も元就の尼子からの独立を反乱だという見方をする人はごく少数です。

力の大小の差はあってもお互いに独立した存在だったのです。

徳川の将軍と各大名の関係もこれと全く同じです。

関が原の戦いの前と後で日本の支配構造は全然変わっていないのです。

徳川家康とそのブレインが「徳川家こそ日本の支配者で他の大名どもはその家来である」と考えれば、人質の論理的な矛盾を考えたはずです。

ところがこの矛盾を解決していません。

彼らの態度はまさに「あるべきようは」です。

鎌倉時代の明恵上人の教えそのままに、藩という社会組織を動物や野の草と同じく自然の一部と考えているのです。

天皇に対する態度も同じです。天皇という何の力も存在理由もない物も、存在しているからそのまま認めているのです。

そして既に存在している物どうしの関係を保つために色々な仕組みを考え出しましたが、参勤交代制度もその一つなのです。

この江戸時代初期の日本の社会体制は、チャイナとは全く違っています。

ところが愚かにも徳川幕府は、社会の統治原理として儒教の一派である朱子学を採用したのです。

なんの洞察もなく朱子学を採用した結果、その朱子学が幕末には尊皇攘夷思想を生み出し、これによって徳川幕府が滅ぼされてしまいました。

愚かとしか言いようがありません。

もともと徳川家康は戦国大名屈指の学問好きで、天下平定の後は儒教の道徳で社会の平和を維持しようという考えを持っていたのです。

そして、朱子学者の林羅山(らざん 1583年~1657年)を儒教顧問に迎えたのでした。

徳川幕府は武力で他の大名を圧したわけですから、武力で徳川を圧倒するものが出てきてもそれに対して主君であると主張することはできません。

そこで徳川将軍は天皇から征夷大将軍に任命されたから正統なのだという主張をしました。

この理論は、天皇が日本の正統な支配者だということが前提になっています。

この証明をすることが、幕府の朱子学顧問だった林家の仕事だったのです。

この林家の主張に対して疑問を呈したのが熊沢蕃山(ばんざん 1619~1691)でした。

蕃山は儒者ではありますが、朱子学から陽明学に転向します。

彼に陽明学を教えたのが「近江聖人」の中江藤樹(とうじゅ 1608~1648)でした。

朱子学は「格物致知」といって、古の大先生の教えをまず学びその後に行動をしなければならないと考えています。

自分の外に存在する物に対する正しい知識がないと誤った行動をとるということです。

その知識にはどの支配者が正統かとか外観をどのようにしたら良いかといった社会構造や行儀作法といったようなルールも含まれます。

陽明学は朱子学に対する反発から生まれたものです。

陽明学の完成者である明の王陽明は若い頃朱子学を学んでいて、「格物致知」を実践しようとします。

一週間竹やぶで竹を観察しそこから知識を得ようとしたのでした。

しかし一週間頑張った結果はノイローゼでした。

そして彼は悟ったのです。先ず知識を得ようとしても覚えることが多すぎて一部しか得られない。

それよりも心を正しくすれば知識が得られるということにひらめいたのです。

そこから心をいかにして正しくするかという内心の問題を重視するようになりました。

そうです。非常に日本的なのです。

そして「知行一致」という原則を立てました。

知識と行動は一体のもので分けられないということです。

知識は行動の初めであり、行動は知識の完成という関係です。

陽明学では知識が先行するのではありませんから、先入観が少なく朱子学徒より物事を客観的に見ることが出来ます。

こういった特性から朱子学を学んだ者から実業家が輩出しました。

中江藤樹も初めは朱子学を学びましたが、それに疑問を感じ独学で王陽明と同じような結論を出しました。

しかし彼が仕えていた大洲藩は幕府の推奨する朱子学から外れた藤樹を異端視したので、彼は脱藩して陽明学を講じていたのでした。

蕃山も朱子学に疑問を感じて藤樹に弟子入りしたのです。

朱子学的な先入観無しに社会を観察した蕃山は、現状を実際的な面から改革していこうとする現実的政策を主君である岡山藩主に提言し実績をあげました。

その結果、彼は3000石の家老にまで出世します。

他の大名たちとも友達付き合いをした人気者だったのです。

藩主は経営者であり、異国の政治哲学より自藩の経営に役立つ実学を求めていましたが、それを蕃山が提供したからでした。

そして実学はその国の環境・風土を基にしているわけで、蕃山も日本の風土を前提にものを考えました。

そこから「日本には日本の風土があり、日本に合った外来思想は残るが合わないものは消えてしまう。」と考えました。

そしてチャイナの儒教は決して日本には適応していないという結論を出したのです。

又藩の経営という立場から、参勤交代の費用で浪人を雇用すれば浪人問題化は解決できるとしました。武士は帰農して生産者になれといったのです。

彼はチャイナの儒教をチャイニーズだけでなく日本人にも当てはまる人類普遍の原理とは考えておらず、その原理にしたがっているがゆえに正統性を持つとは考えていませんでした。

幕府の儒教顧問である林家が儒教の理論を使って幕府の正統性を証明しようとしているのを見ても、どうせ成功しないと考えていました。

日本の社会制度はチャイナとは違うので、儒教で幕府を正統化できないことが分っていたからです。

このように蕃山は幕府の儒教顧問の林家に正面から反対する意見を持っていました。

そのため幕府から激しく弾圧され、岡山池田家の家老の地位も失い、蟄居謹慎させられてしまいました。

蕃山という現実に沿ってものを考える人の思想が江戸時代の中心的思想になるということはなかったのです。

そして朱子学という日本の現実から遊離した思想が主流となって行きました。


© Rakuten Group, Inc.